全面侵攻とキーウ攻防(2022)― 3日で終わらなかった戦争
2022年2月24日未明、ロシアはウクライナへの全面侵攻を開始した。多くの観測筋は「キーウは数日で陥落する」と見ていた。だが戦争は3日では終わらなかった。ロシアの首都攻略は失敗し、開戦から5週間で、その北部戦線は崩れ去る。
四方向からの侵攻
侵攻は単一の攻撃ではなく、四つの主要方向から同時に行われた。この「戦線の広さ」こそ、ロシアの計画の野心と、そのつまずきの原因の両方を物語っている。
図2:2022年2月の四正面 ― ロシア軍の主要進攻方向
キーウ攻略の失敗
最重要の目標は首都キーウだった。開戦初日、ロシアの空挺部隊がキーウ北西のホストメリ(アントノフ)空港にヘリボーンで強襲し、ここを橋頭堡として一気に首都へなだれ込む計画だった。だがウクライナ側の反撃で空港の奪取は難航し、大規模な空輸は実現しなかった。
地上では、ベラルーシ領から南下したロシアの機甲部隊が、キーウへ通じる道路に沿って長大な車列を伸ばした。衛星画像がとらえた「64km(40マイル)の車列」は、この戦争を象徴する光景となる。だが車列は森林と湿地に挟まれた道路に釘付けとなり、燃料と補給の枯渇、そしてウクライナの機動防御と対戦車ミサイル(ジャベリンやNLAW)による待ち伏せで、前進は止まった。都市を包囲するどころか、自らが渋滞に囚われたのである。
なぜ「3日で陥落」は外れたのか
戦前の悲観的予測が外れた理由は、単一ではない。第一に、ロシアが自軍の即応性と兵站を過大評価し、ウクライナの抵抗意志を過小評価した。多くの部隊は「短期の示威行動」と聞かされており、本格的な戦争の準備も士気もなかったとされる。第二に、戦力の四正面分散により、どの方向でも決定打を欠いた。第三に、ウクライナ軍は2014年以降の8年で別物の軍隊に変わっており、指揮の分権化と機動防御で、鈍重な縦隊を各個に叩いた。第四に、ゼレンスキー大統領が首都に留まり「私はここにいる」と発信したことが、国民と国際社会の結束を生んだ。
ブチャ ― 占領地で起きたこと
3月末、ロシア軍はキーウ攻略を断念し、北部戦線から撤退を始めた。ウクライナ軍がキーウ近郊のブチャ、イルピン、ホストメリなどを奪還すると、占領下で多数の民間人が殺害されていたことが明らかになった。路上に放置された遺体、手を縛られた犠牲者――ブチャの惨状は世界に衝撃を与え、ロシアの戦争犯罪をめぐる国際的な調査の起点となった。ロシアは関与を否定したが、衛星画像や現地の記録は占領期間中の殺害を示していた。
この北部撤退は、ロシアにとって当初計画の破綻を意味した。以後ロシアは「特別軍事作戦の第2段階」としてドンバス制圧に目標を絞り込む。戦争は「電撃戦による斬首」から「東部・南部をめぐる長期の消耗戦」へと性格を変えた。この転換点までが、本章の範囲である。
この章のポイント
- ロシアは四方向から同時侵攻したが、戦力分散が主目標キーウでの失敗を招いた。
- ホストメリ空港の強襲とキーウ攻略は失敗。長大な車列は兵站難と待ち伏せで停止した。
- 「3日で陥落」の予測を覆した鍵は、抵抗意志・2014年以降の軍改革・指導部の残留。
- 3月末の北部撤退でブチャの惨劇が露見。戦争は電撃戦から消耗戦へ移行した。