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EST. 2026
研究論文 | 自衛隊ドクトリン史

陸上自衛隊ドクトリンにおける日米折衷の形成過程 ― 警察予備隊から『野外令』へ

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陸上自衛隊の運用思想は、しばしば「米陸軍式と旧日本陸軍式の折衷」と評される。だが、その折衷はいつ、誰が、どんな議論の末に選んだのか。本稿は、警察予備隊の創設から教範『野外令』の制定、そして米国式採用の確定までを、五つの局面――前提・移植・受容・制度化・決着――として跡づけ、その思想的構造を明らかにする。一次史料と、防衛研究所の公的研究(葛原和三・樋口俊作ら)に依拠している。

折衷が生まれるまで ― 五つの局面

  • 1951 前提:敗戦の反省史実研究所が旧軍の「主義」を自己否定。その先に米軍思想との一致が見いだされる。
  • 1950〜 移植:警察予備隊朝鮮戦争の勃発で警察予備隊が発足。軍事顧問団の統制下で米軍式が全面移植される。
  • 1951〜 受容:旧軍人の復帰中ソの脅威が「防衛部隊」への転換を促し、公職追放を解かれた元大佐十一名が復帰。
  • 1952→1957 制度化:教範の編纂直訳教範『作戦原則』(1952)から、折衷的性格を帯びた『野外令第一部(草案)』(1957)へ。
  • 1961.9 決着:米国式の確定幹部学校での激論を杉田陸幕長が裁定。米国式採用が明確化する。

山場は1961年9月、幹部学校にあった

本稿が最大の「山場」として重視するのは、1961年前後に陸上自衛隊幹部学校をめぐって展開された、日本式戦術と米国式戦術の路線対立である。前幹部学校長・井本熊男と、新幹部学校長・新宮陽太とのあいだで激論が交わされ、これを杉田一次・陸上幕僚長が裁定して米国式採用を明確化した。象徴的なのは、この三人がいずれも公職追放を解除されて復帰した旧陸軍大佐だったという事実だ。折衷ドクトリンの形成は、外からの押しつけではなく、旧軍世代自身の手による自己批判と選択の所産だった。

「形は米式、底流は日本式」という二層構造

本稿が明らかにする折衷の構造は、単純な足し算ではない。それは二層をなしていた。

形式(表層)は米式:戦術的な思考の組み立て、幕僚手続き、そして「戦いの原則」といった枠組みは、アメリカ陸軍から受け継いだ。
底流(深層)は日本式:国土防衛を最優先する志向と、知識を「不変の原則」として権威的に受け取る態度は、旧日本陸軍から引き継がれた。

本稿の結論

  • 折衷は五局面(前提・移植・受容・制度化・決着)を経て成立し、1961年9月の杉田裁定で米国式に確定した。
  • それは押しつけでなく、旧軍世代自身による自己改革だった。
  • 結果は二層構造――形式は米式、底流は日本式。
  • この構造は、国土防衛の独自性という積極的遺産と、ドクトリンを批判・発展させる精神の欠如という消極的遺産を、ともに後世に残した。

この論文を読む意義

陸上自衛隊の教範体系がなぜ今のかたちなのかを理解する鍵は、この草創期の折衷にある。本稿は、その選択を「誰が・いつ・どんな論争で」決めたのかまで踏み込んで再構成する。旧軍人がどのように自衛隊へ流れ込んだのかを描いた「服部グループと旧日本陸軍将校の戦後」が“人と組織”の物語だとすれば、本稿はその“思想”がどう結実したかの物語である。二本を併せて読むと、旧軍から自衛隊へのドクトリンの継承が立体的に見えてくる。

主要史料:葛原和三「朝鮮戦争と警察予備隊」「警察予備隊の創設と日米軍事思想の葛藤」/樋口俊作「『野外令』の性格を考える」「草創期の陸上自衛隊における『戦いの原則』の受容」/北川敬三「日本海軍から海上自衛隊へ」/史実研究所研究資料(1951年)ほか。
著者:河野 通(Veruhu) | 発表:2026年6月 | 関連論文:服部グループ →

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